HONDA RCB

8つのヨーロッパ耐久ロードレースで7つの栄冠を獲得して凱旋したバイク、
ホンダRCBが四国自動車博物館にある。

フランス南西部、スペインとの国境に近いボルドールにブガッティ・サーキットはある。1976年9月18日〜19日、ここでシーズン最後のヨーロッパ選手権をかけた24時間耐久レースが行われた。スペインGPと日程が重なっていたが、世界各国からの精鋭マシンが集まり、またボルドール24時間の第40回記念大会とあって、14万人の観客を集めるという大盛況のロードレースが繰り広げられた。その中にホンダRCBの姿があった。

トラックに幾筋も駆け巡るライト。会話も満足にできないほどの排気音が、走り去るマフラーから吐き出される。光が、音が、いやがうえにもサーキットを包む緊張と興奮をかきあげていった。
ホンダのピットは最終コーナーを迎えて、すべてのマシンがスロットルをほぼ全開にするレベルにまでなっていた。エアホーンが次々と他のチームのピットインを知らせる。ピット周辺は戦々恐々とした雰囲気が漂っていた。ゼッケンナンバー5、フランスホンダのエースライダー、ジャン・クロード・シュマランが操るRCBもそろそろピットインである。「T2」のボードを掲げ、タイマーがあと2周を告げた。シュマランのRCBは、クルーたちの熱い視線の中、ホンダのピットに帰ってきた。

ボルドールの熱く長い一夜から、栄冠へのフィニッシュ。

1人のメカニックがSTOPボードを持って、ゼッケン5のRCBを作業しやすい場所に誘導した。エンジンが止まるとすぐ給油。20リットルのタンクはわずか6秒で満タンになった。
「第1コーナーのカーブにオイルがこぼれている」とシュマランは次のライダーのジョージに告げた。だが、アレックス・ジョージはただシュマランの目を見つめているだけだ。
わずかの間をぬって、もう1人のメカニックがマシンをくまなくチェック。マシンの微妙な変化を瞬時に読み取り、車のコンディションを判断した。Hondaチームの総監督は、60年代GP挑戦時のチーム監督でもあった秋鹿方彦氏、そしてルイジ・タベリやマイク・ヘイルウッドのメカニックを務めた吉田正勝氏がチーフメカを担当していた。

ジョージがRCBにまたがった。キックペダルを2回ほど踏んだがかからず、メカニックが後ろを押した。5mほど走り、エンジンが再燃、すぐにマシンは闇の中に消えていった。
そして、午後4時。ホンダRCBは大観衆の待ち受けるグランドスタンド前にその姿を現した。762周、3,412kmを走りぬき、最終ラップを待たずに優勝を決めたRCBの頭上に悲願のウィニングチェッカーが振り下ろされた。14万人の大観衆がコースになだれ込み、クルーもライダーも揉みくちゃになって喜び合った。
その栄冠に輝いたゼッケンナンバー5のホンダRCBが、現在、四国自動車博物館に展示されている。